当BLOGコンセプトについてのご説明
「 禁じられた果実~知的考察実験室~」
とタイトルを付けました、当BLOGの全体のテーマ、コンセプトは、
「人間による知識へのあくなき探究、人間が「知」という「罪悪を伴う至宝」を得たが故の懊悩と歓喜」
という、厨二病チックな誇大命題となります。
私が若輩な社会人として世に放出された頃から、既に「生涯学習」というものが持て囃されておりました。
「義務教育から高等教育を経て、やっと「勉強という苦行」から解放された!」
と思いきや、社会に出れば学生時代の甘ったれた心根を打ち砕くかのような、社会人としてのモラルとビジネススキルという新たな学習を求められるという現実に、当時の私は「またイチから勉強かよ」と不平を漏らしつつも、流されるままに、情報の奔流をただひたすらに飲み込まされるという、形を変えた勉強を受け入れていきました。
サインコサインタンジェントなんてものが役に立つような職種には終ぞ就かなかったのですが、凡そ義務教育レベルで叩き込まされる基礎教育の成果は、まるで点と点が線で繋がり、その線と線が複雑に接続し合うネットワークとして様々な場面で応用として活用されることに、
「もっと勉強しとけばよかったなぁ」
という後悔が過る事となるのです。
勉強=強いて勉める、とあらためて解釈すると、私が今まで何となく捉えていた「学び」という取り組みは、知識へのアプローチが間違っていたのではないかと考えたのです。
知識への究極のアプローチとは、根源的なアプローチとは何なのか?
ヘレン・ケラーの伝記の一シーンで、サリバン先生が、ヘレン・ケラーの手を、流れる水に直接受け止めさせて、「Water! Water!」と叫び伝える場面があります。
サリバン先生は、「水」という概念と、「Water」という言語を、ヘレン・ケラーに直接的に結実させることで、「これは水、という言葉で表現するのだ」という知識をもたらしたのです。
原初の時代、奇跡と偶然により人類の眼前で発生した「火」(それは落雷によって発火し燃え盛る炎だったのかは知る由もありませんが)という現象を知覚し、この現象が「熱く」「明るく」「持続しない」現象であることを知見し、その現象を「燃えている」と概念付け、その現象の結果物には「焼けた」という概念付けをしたのです。
人類はその現象「火」を移動させ、保持することが出来るようになりました。
「火」の持つ特性は、人類に様々な発見をもたらし、その発見を「知識」として周囲に伝達することにしました。
人々は、その「火」という現象から発見発展させた成果物により、やがて他の地上生物を凌駕する「支配的生物」として君臨したのです。
回りくどい話が続きました。
結局のところ、人間はその知覚するものからの情報を脳で咀嚼し、過去の経験と関連付け、類推し、新たな知識を獲得する、という無限のプロセスを行うことが出来る存在なのだという事です。
また、他の知的生物と決定的に異なる優越的能力、「文字」と「言語」を操ることが出来る稀有な存在であるからこそ、人間という存在が今日まで発展繁栄してきたともいえるのです。
西洋世界の有名な寓話「創世記」にある一節、「楽園追放」とは、人間という存在が、「知」という「甘美な毒」を得た事による、「苦悶」と「歓喜」の瞬間であると考えます。
人間に与えられた「究極の贖罪」「究極の悦楽」たる、「知識の集積=学び」を、混迷を極める今こそ自覚し、その栄誉を与る事としたいという思いを込めて、
「禁じられた果実~知的考察実験室~」
というタイトルに表しました。
私も、今更ながら、むやみやたらにその知識を得る機会を全うし、知を得た人間の原罪を甘んじて受け入れたいと思います。
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