「選択的夫婦別姓制度」の社会的機運についての考察(Ver.2)

前回記事にも取り上げた「選択的夫婦別姓制度」についての考察において、私が言葉をこねくり回した屁理屈は、国民民主党の玉木代表の「玉木案」と呼ばれるものが、より洗練された試案と思われましたが、今回の参院選の争点として、主に経団連や連合といった組織の意向を酌む形で、夫婦別姓制度の法整備への立場を明確にする議員の方々、国民世論の趨勢も鑑み、党の統一方針化が進む見込みです。


選択的夫婦別姓制度について、世界的な社会形態の趨勢と、個人のアイデンティティをより重視する社会的機運の高まりに合わせ、日本としてもあまり思考的態度を硬化させず、対話と議論の熟成へ柔軟に取り組む姿勢は、大切であると考えます。


多くの先進国では、夫婦別姓や選択的夫婦同姓制度が導入されており、個人の自己決定権や多様な家族のあり方を尊重する傾向が強まっています。

日本においても、個人のアイデンティティやライフスタイルを重視する価値観が広がり、特に若年層を中心に、選択的夫婦別姓制度への支持が高まっています。

国際的な潮流や国内の社会変化を踏まえ、日本も硬直的な態度を改め、柔軟に対応する必要があると考えられます。


選択的夫婦別姓制度の導入は、個人の尊厳、男女平等、社会の多様性を尊重する上で、重要な一歩となる可能性がある一方で、制度導入にあたっては、戸籍制度との整合性、子の姓の選択、社会制度との連携など、慎重な検討が必要であり、また、国民の理解と合意形成を図るための丁寧な情報提供と議論が不可欠です。

今回の参院選の結果を踏まえ、国会での議論が加速し、具体的な制度設計に向けた動きが進むことが期待され、多様な意見を反映させながら、日本の社会に合った制度を構築することが重要と考えます。

選択的夫婦別姓制度は、個人の生き方や家族のあり方に関わる重要な問題であり、今後の議論の行方が注目されます。

姓の取り扱いという、その国の文化に根差す根源的かつセンシティブな様式については、安直な政治的力学、特に「選挙対策上の優位性」にのみ重きを置いた態度態様は厳に慎むべきであり、立法府側だけではなく、国民もまた「政治家に投げておけば、あとは都合よく体裁を整えてくれるだろうよ」といった、卑しさと怠慢に満ちた態度態様もまた、厳に慎み、自発的にこの社会的課題について、真剣に議論するようにすべきです。


農耕社会からの中央集権体制の管理維持においての一翼を担った戸籍制度の日本での独自の発達と社会的文化的浸透と、氏と姓、諱といった「人の名」という個人識別方法とコミュニティとの統合方法による、自身のアイデンティティの確認、という習俗的な態様といった、西陣織のような複雑な文化の重なり合い故の問題を、現代理知的アプローチで解きほぐして再構築させていくか、という難解な作業工程を、ろくすっぽ真面に考えもせず、言いたい放題自身らの権利や立場のみで頑強に主張し、互いを攻撃しあう不毛な論争とも言えない行為の果てに、国会においては、質問側も答弁側も公設秘書やら官僚やらに原稿を丸投げ、実務具体化についても、これまた議員やら上層官僚やらが下層官僚に仕事を丸投げしてあとは知らんぷり。

後の問題? 知らんがな!

とかで良いのか、あんたら国民は?


選択的夫婦別姓制度の法整備の議論の中で、戸籍制度との整合、もしくは戸籍制度自体の見直しや再構築、夫婦間の財産分与や税制の法整備、社会生活上の認知熟成と浸透は欠かせません。

ただひとつ懸念があるとすれば、夫婦別姓の場合の子の姓の取り扱いです。

多くの場合、子の姓を両親の協議によって、夫婦どちらかの姓を選択決定する、ということなのですが、それでは、子の「個人としてのアイデンティティ」と、自主的な権利表示方法をどのように法的に担保するのか、という視点が欠けている向きがあります。

子もまた一個人であり、個人としての独自の権利意思の表示と、思想の自由の担保は図るべきであり、子は両親の「所有物権の一体系」と見做すような、倫理的・道義的な問題の解決も同時に図る必要があると思います。

例えば、両親がどちらかの姓を、子に対して両親の協議によって法定した後に、子自身が、その姓の法定に異議を唱えた場合の法的解決手段、またはその法的問題を未然に防ぐ取り組みを、どのように担保するべきなのだろうか。


選択的夫婦別姓制度導入における「子の姓」の取り扱いは、非常に重要な検討課題であり、子の「個人としてのアイデンティティ」と自主的な権利の保障は不可欠です。

子が両親の決定に異議を唱えた場合の法的解決手段や、問題を未然に防ぐ取り組みは、制度設計において十分に考慮されるべき点です。

残念ながら、「夫婦別姓の場合の子の姓の法定後に、子がその姓の法定に異議を唱えた場合の法的解決手段」を明確に定めている主要な国は、現時点では多くありません。

 これは、多くの場合、子の姓は出生時に両親の合意によって決定されることが前提となっているためです。

しかし、いくつかの国や地域における関連する法制度や議論、そして倫理的な観点から、参考になる考え方や取り組みの方向性が見られます。


1.  子の意思決定権の尊重と段階的権利付与

年齢に応じた意見表明権:

成年に達するまでの間、子の年齢や発達段階に応じて、自身の姓に関する意見を表明する機会を設けることが考えられます。

例えば、一定年齢以上の子には、両親の姓の選択について意見を聴取する義務を課すなどが考えられます。

成年時の選択権:

成年年齢に達した際に、自らの意思で姓を選択、または変更できる権利を付与することは、子の自己決定権を尊重する上で重要な選択肢となります。

これは、現在の日本における氏の変更手続き(正当な理由があれば家庭裁判所の許可を得て変更可能)を、より明確な権利として位置づける考え方です。


2.  法的な異議申し立ての可能性

子の福祉の観点からの介入:

両親による子の姓の決定が、明らかに子の福祉を損なうと判断される場合には、親権者変更や子の保護に関する法的手続きを通じて、子の姓の変更を求めることができる可能性があります。

ただし、これは姓そのものへの異議というよりは、親権や監護に関する問題として扱われることが多いです。

成年後の氏の変更手続きの柔軟化:

成年後に子が自らの意思で姓を変更する手続きを、より簡便かつ合理的な理由で認められるようにすることは、間接的に子の権利を保障する手段となります。


3.  未然防止のための取り組み

両親への十分な情報提供と協議の推奨:

子の姓の決定にあたり、両親に対して、子のアイデンティティや将来の可能性に配慮することの重要性を啓発する情報提供を行うことが重要です。

また、両親が十分に協議し、可能な範囲で子の意向も考慮するよう促すことが望ましいです。

子の姓に関するカウンセリングや相談窓口の設置:

子が自身の姓について悩みを抱えた場合に相談できる窓口を設けることで、問題の深刻化を防ぎ、適切な支援を提供できる可能性があります。

他国の状況(直接的な法的解決手段は限定的):

スウェーデンの場合:

 親が子の姓を届け出る際、子が12歳以上であれば、原則として子の同意が必要です。

これは、子の意思を尊重する姿勢を示すものと言えます。

ドイツの場合:

 子の姓は、原則として両親の婚姻時の姓、またはどちらかの親の姓となりますが、子の福祉に反する場合は変更が認められることがあります。

カナダ(ケベック州)の場合:

親は子の姓を自由に選択できますが、子の最善の利益が考慮されます。

これらの国々でも、子の姓の決定は主に親の責任とされていますが、子の年齢に応じた意見表明権を認めたり、子の福祉を最優先に考慮する原則を設けたりすることで、間接的に子の権利を保障しようとする動きが見られます。


倫理的・道義的な問題の解決に向けて:

子の姓は、単なる識別記号ではなく、その子のアイデンティティの一部を形成する重要な要素です。

したがって、子の姓の決定は、親の所有物権の行使としてではなく、子の人格と権利を尊重する観点から行われるべきです。

子の最善の利益の原則:

あらゆる子の決定において、「子の最善の利益」を最優先に考慮するという国際的な原則を、子の姓の決定においても明確に適用する必要があります。

子の権利に関する啓発:

親だけでなく、社会全体が子の権利に関する意識を高めることが重要です。

継続的な議論と制度の見直し:

子の姓に関する問題は、社会の変化や価値観の変容とともに、継続的に議論され、必要に応じて制度が見直されるべきです。


現時点では、子が親の決定した姓に異議を唱えた場合の明確な法的解決手段を持つ国は少ないですが、子の年齢に応じた意見表明権の保障、成年時の選択権の付与、子の福祉の観点からの介入、そして何よりも子の人格と権利を尊重する倫理的な視点を持つことが、今後の制度設計において重要となります。

日本においても、これらの点を踏まえ、子のアイデンティティと権利を十分に保障できるような制度設計が求められます。


常々思うんですがね?

経団連やら連合やら各種団体さんは、やれ「世界の潮流はこうだ!」とか「日本は世界の動きに対してガラパゴスだ」とかさんざん仰いますがね?

「貴方たちだけ」の日本国じゃないんですよ?

いくら議員やら上層官僚やらが、使いっ走りに適してて、軽くて担ぎやすい神輿で、思い通りのパペットであったとしてもですよ?

ちょっとワガママが過ぎやしませんかねぇ?

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